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なぜ今、ナッジが必要?|竹林正樹(行動経済学者)

竹林正樹(青森大学客員教授/行動経済学者)

【ケーススタディ】

4月。コンサルティング会社のX社では健康経営戦略会議が開催されました。健康支援室のベテラン保健師のAさんは「定期健診で有所見となった従業員の二次検査受診率昨年度比20ポイント増加」という目標を発表したところ、専務は「受診率向上に向けて、積極的にナッジを使ってみてください」とコメントしました。A保健師は(ナッジ?何それ?)と思いながらも、「丁寧な情報発信を心がけます」と答えました。

5月。マーケティング担当者から「自治体のヘルスケアのコンペに参加しようかと考えています。コンペの要件には「ナッジの活用」が記載されています。ナッジのことを教えてください」との依頼がありました。A保健師は(なぜ私が)と思いながらも、ウェブで検索したところ、「ナッジは行動経済学の中核理論で、選択を禁じることも経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択的アーキテクチャのあらゆる要素(セイラー&サンスティーン,2022)を意味する」との記載を見つけました。A保健師は直感的に(行動経済学ってお金儲けの学問でしょ?)と感じ、「ナッジはヘルスケアでお金儲けしようという考え方よ。根本的に間違っているので、コンペは参加しないほうがいいわね」と回答しました。結局、この案件は競合のY社が受注しました。

6月。健保組合の事務長がナッジ研修会に参加しました。復命書には、ナッジの弱点として「長期的効果は不明」「悪用の可能性がある」と書かれていました。それを見たA保健師は「やっぱりナッジは怪しいんだわ」との考えを強く持つようになりました。

7月。A保健師は二次検査受診促進ハガキの起案をしました。従来の内容に加え、「わが社は二次検査受診率が低い。二次検査を放置すると、あとで生活習慣病になって辛い思いをする」といった内容にしました。(これくらい書けば、さすがに受診するわね)と、A保健師は内心、自信を持っていました。

12月。2回目の健康経営戦略会議が開催され、A保健師は「二次検査受診率は昨年度同時期より3ポイント減少しました。健康に無関心な層が増えたからと考えられます」と報告しました。

専務は「ハガキにどんなナッジを使ったのですか?」と聞くと、A保健師は「丁寧な説明を心がけ…」と返答しました。

「健康寿命延伸プラン(厚生労働省策定,2019a)」では全ての事業所においてナッジの活用が推奨され、管理栄養士や保健師の国家試験にはナッジに関する出題が行われるなど、いまやナッジは健康支援に不可欠なスキルになってきています。ナッジの多くはエビデンスに基づいており、他の介入より費用対効果が高いです(Benartzi et al. 2017)。

それにもかかわらず、A保健師はナッジを使おうとしませんでした。使わない側にも言い分があるはずです。A保健師の観点に立って、ナッジ普及の阻害要因をひも解いていきます。


<目次>

1. ナッジへの疑問
2. ナッジのフレームワークEAST
3. ナッジの弱点と克服方法
4. 企業でのナッジ事例
5. 最後に


1.ナッジへの疑問

A保健師がナッジを使いたくなかった背景として、ナッジへの疑問が晴れなかったことが挙げられます。

疑問1)なぜナッジは行動経済学?

「ナッジは行動経済学の理論」と聞いた瞬間、A保健師は「私たちはヘルスケアの仕事をしており、お金儲けの経済学は不要」と感じました。これは典型的な誤解です。他部門では経済学部出身者が多いことを踏まえると、経済学を正しく理解することでコラボヘルスでのすれ違いが減るかもしれません。

経済学は「限られたリソースをどう配分して、いかに満足度を最大化することができるか?」をテーマとする学問です。このため、「幸福追求」という観点から健康経営と相性がよいのです(竹林&後藤, 2022)。

経済学は250年以上の伝統を持つ中で、完全な合理性を持った人(合理的経済人)の満足度最大化を研究してきました。一方、現実世界に暮らす多くの人たち(ヒューマン)はこのような完全性な合理性を持っていないため、伝統的経済学では説明しきれない事象が増えてきました。

「がん検診受診促進」を例に考えていきます。今までは、受診率向上策として「検診の重要性の普及啓発(情報提供)」や「受診料の無償化(インセンティブ)」が使われてきました。これらの方法は合理的経済人を動かすのには向いています。一方、ヒューマンは、これらの介入を受けても、「いつか受けよう」と先延ばしにし、結局は受けないことがよく見られます。

このように「頭で必要性をわかっていても、行動しない現象」の背景には、認知バイアスがあります。具体的には、がん検診未受診者や生活習慣の悪い人には現在バイアス(現在の誘惑や面倒を過大評価する心理特性)が見られる(Lawless,2013)ため、目の前の申込手続きを極端に面倒くさがり、受診を先送りにします。そして、ヒューマンががんに罹患したときに「わが選択に悔いなし」となればよいのですが、実際には「あのとき受診しておけばよかった」と強く後悔するケースがほとんどです。

このため、ヒューマンをターゲットとした幸福追求の学問が求められるようになりました。これが行動経済学です。行動経済学の「行動」は「認知バイアス的行動」とイメージするとわかりやすいです。

疑問2)ナッジの定義がわかりにくい

次にA保健師を悩ませたのは、ナッジの定義です。正式な定義は経済学研究者以外には難解に映るため、ここでは「頭で必要性を理解していても腰が重い人を認知バイアス(心理傾向)の特性に沿って一歩踏み出させる手法」と換言します。

多くの研究から、望ましい行動ができない背景には特定の認知バイアスがあることが判明しました。これに伴い、認知バイアスの特性に沿った介入設計が可能になりました。この介入方法がナッジです。例えばがん検診受診案内では、「検診日時を指定し、都合の悪い人は申し出る方式とする(デフォルトナッジ)」「検診の受診日時を報告させる(コミットメントナッジ)」ことによって、現在バイアスの強い人でも申し込む可能性が高まります(厚生労働省,2019b)。


2.ナッジのフレームワークEAST

記事:なぜ今、ナッジが必要?

■執筆


竹林正樹(行動経済学者)

青森大学 客員教授 / 青森県立保健大学 非常勤講師・客員研究員

青森県出身。立教大学経済学部、米国University of Phoenix大学大学院(Master of Business Administration)、青森県立保健大学大学院修了(博士(健康科学))。行動経済学を用いて「頭ではわかっていても、健康行動できない人を動かすには?」をテーマにした研究を行う。「ホンマでっか!?TV(フジテレビ)」を始め、各種メディアでナッジの魅力を発信。ナッジで受診促進を紹介したTED(テッド)トークはYouTubeで90万回以上再生。代表作は「心のゾウを動かす方法」(扶桑社)、「介護のことになると親子はなぜすれ違うのか」(GAKKEN)。

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